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エピソード8 『自由の空へ』

エピソード8

ゆうこさんは、私をカウンターの中に導き入れた。

客席はライブ音響でとてもやかましく、会話ができるような状況ではないのだ。

カウンターの内側の死角に入れば、それなりに円滑に会話ができる。


私は軽く自己紹介をし、そして経緯を話した。

また、心理学の話を聞く前に、さっきの彼について、尋ねておいた。

「亮くん?悪い子じゃないわよ。…おおむね。ウフフ。

 『どもり』持ちだから、慣れるまではたまげるでしょうけど!」

「どもり?」

「ほら、あの子『お、お、お、オレさぁ』とかって、よく言葉に詰まるでしょ?」

「はい。すっごいキョドってましたよ。」

「キョドってるんじゃないのよ。

 『どもり』って知らない?『吃音(きつおん)』とも言うわね。言語障害の1つよ。

 昔、『裸の大将』ってドラマやってたんだけど、今の子知らないのかしら?

 おにぎり大好きのヘンな絵描きが、旅するハナシよ。

 あの主人公の絵描きが、『ぼ、ぼ、ぼくは、お、お、おにぎりが好きなんだなぁ』

 とかって、ヘンなしゃべり方してんのよ。それが『どもり』。

芸術家や哲学者に多いらしいわ。どもりって。」

「へぇ。」キョドってるのかとばかり思ってた。

「でも、

 心理学の話だったら、亮くんに聞けばよかったのに?」

「え?彼も心理学に詳しいんですか?」

そういえば、そのようなことをつぶやいていたような。

「詳しいも何も!

 彼、かなりのエリートよ?

 フィンランドの大学出てるんだからぁ。私には絶対ムリ!

 心理学部を英語で受講して、英語で卒論書いたわよ。フロイトについて。」

「そう…なんですか。

 でも私、ゆうこさんのほうが良いです。男の人ってニガテだし。」

「あら!あなた、ウブなの?」

「ウブ?あ、いえ、はい…そう言えるかもしれません。

 恋愛経験は、無いこともないですけど…」

「そっかー。それであなた、

 心理学の袋小路にハマっちゃったクチ?」

「袋小路?」

「えぇ。袋小路っていうか、落とし穴っていうか?」

あ。お母さんが言ってたのと同じことではないだろうか。

…すると、私が学ぶべき核心というのは、

エミコ先生に会わなくても、ゆうこさんから得られるのかもしれない。

…彼が言っていたとおり…。

 

「そうかもしれません。

 お母さんに、『心理学のせいでやつれたようだ』と言われちゃいまして…。

 それで、落とし穴とやらから抜け出すべく、小旅行に出てきたんです。」

「ふうん。

 あなた、フロイトは読んだ?」

「い、いえ。まだです。春に学びはじめたばかりなもので…」

「ひょっとして、臨床心理の本ばっかり読んでるんじゃない?」

「いや、そんなこともないですけど、

 今はたしかに、臨床心理に興味強いかも…。」

「やっぱりねぇ。

 いい?翔子ちゃん。

 『心』という不可視の領域に目をやるのは、とてもすばらしいことよ。

 でもね、心理学のテキストは、万能じゃないの。

 ある意味では、心理学は、逆効果だわ。」

「逆効果…」

お母さんも、そんなようなこと言ってたような。

「そうよ。逆効果かもしれないわ。

 あなた、ラットの実験とかもう習ったでしょ?

 100匹のラットにチャイムの音を聞かせてからエサを与えたら、

 80匹のラットは、チャイムを聞くだけで唾液分泌が活発になった、みたいな。」

「はい。一通り学んだと思います。」

「それって、心理学だと思う?」

「え!?心理学…じゃないんですか?」

いったいこの人は、何を言い出すのだ!?


ゆうこさんは、話を続ける。

「じゃぁ質問するけど、

 心理学って、何のためにあるの?」

「えぇと、人の心理を解明して、

 心安らかに暮らすため、かな。」

「まぁそんな感じで良いわ。

 でも、ラットの臨床実験で語られる教訓は、

 人を安らかになんて、してくれないのよ。」

「そうなんですか?どうして!?」

「いい?

 まずね、100匹中80匹のラットが取るリアクションなんて、

 実験するまでもないようなことなのよ。常識であり、一般なの。

 そういう、一般的なリアクションをしてる人たちは、

 たいして心を病んだりはしないのよ。

 心理学という薬を必要としてるのは、

 他でもなく、残りの20匹のほうの人たちなのよ。マイノリティの人たち。

 でも、臨床心理学では、そういうマイノリティのラットのことなんて、

 まったく気にしないのよね。無視するのよ。」

「は、はぁ。」

「いい?よく考えてみてよ?

 でも、本当に心理学が救わなくちゃいけないのは、

 その、マイノリティの20匹のほうじゃない?

 みんなと違くて戸惑ってるほうのラットたちよ。

 一般常識に迎合できなくて、戸惑ってるほうの人たちよ。」

「…!」

「すると、

 研究者たちが何十種類とラット実験をしたところで、

 そんなの、人間の健康には役立っていないのよね。それが実情よ。」

「そうだったんだ…!」

「『無視された20匹のほうが重要だ!』っていう事実に気付いた心理学探求者は、

 そこでもう、学術的な勉強をヤメるのよ。

 資格取得なんて興味がなくなるし、精神科医なんか目指さなくなる。

 心理学に失望して、他の分野に移っていくわ。

 20匹のほうの気持ちを理解して、彼らを癒してあげるためには、

 もっとリアルな人生経験をいっぱい重ねて、

 体験っていうテキストの中から、処方箋を見出していくしかないのよ。」

「つまり…?」

「つまり、

 心理学を極めたいなら、精神患者を救いたいなら、

 むしろ、心理学の本を閉じたほうが良いのよ。

 そして、もっと幅広く、いろんな経験に首つっこむべきなのよ。

 こういう、水商売みたいな、精神性とはほど遠い分野とか、ね。ウフフ。」


『自由の空へ』

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