エピソード1 『トランク1つで生きていく』
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- 2023年3月8日
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プロローグ
ドォーーーーーーーーーーーーーーン!!
あのときのすさまじい衝撃は、今でも鮮明に思い出せる。
けれど思い出さない。描写したりはしない。
「震災の恐怖を語り継ごう」なんてニュースは真面目な顔で言うけれど、
私はまったく賛同できない。無意味に思い出したくはない。
記憶や映像を振り返ることよりも、
とにかく前向きに、どうやって震災に屈しない生き方をするか、
そればかり考えれば良いんじゃないかと思う。私は、ね。
エピソード1
そう。私は、あの甚大な規模を誇った熊本大地震の、被災者です。
被災者ですというか、あまり被災者の自覚はないのだけれど、
地震があったとき私は、熊本県に住んでいたのです。
あのとき私は、録画しておいた旅番組を見ていて。
私の大好きな女優さんが、自らハンディカメラを回しながら歩き、
イタリアの美しい町並みを紹介していました。
このロケが楽しみだった彼女は、ほかの仕事を2つも蹴ってきたそうで。
ちょっと申し訳ないことをしながらも、開放された自由を満喫するかのように、
饒舌に町のたたずまいをリポートしていて。
「私の荷物、これだけなんです。」
彼女がカメラに掲げて見せるのは、古いながらも上質な、ラクダ色のトランク。
旅の荷物をすべてこれに詰め込んで、彼女は飛んできたらしい。
「このまま、この旅レポもほっぽり出して、ヨーロッパ暮らししよっかなー♪」
浮かれ声に漏らすそのつぶやきは、あながち彼女の本心だったんじゃなかろうか…
その直後に震災があり、
家族はニュースを見るべく、私の録画を無理やり消した。
私たちはテレビの地震速報を横目に、
ダイニングキッチンで派手に倒壊した食器棚の、片付けをしていた。
食器という食器が飛び出し、飛び散り、粉々となった。
うちにこんなに食器あったっけ?お宝鑑定でもするように、珍しげに光に透かす。
お祖母ちゃんの形見だの、お隣からのお土産だの、高級食器がたくさん。
高級食器ほど、無残に割れている気がしてならない。
姪っ子来訪用に用意してある100円ショップのプラスチック茶碗は、
もちろん無傷だ。描かれたパンダちゃんが、勝ち誇ったように笑っている。
「はぁあ。」私はため息をつく。
……?
そうか。パンダちゃんとか最低限の食器だけなら、こんなに大きな食器棚は不要だな。
大きな家も必要ない。大きなスーツケースだって必要ないじゃないか。
食器棚の片づけが終われば、その奥にあった貴重品入れにたどり着く。
お金と通帳、印鑑、その他もろもろを救出する。
スマートフォンの災害メールは、私たちに避難を促している。
「自宅は危ない。学校の体育館に集合せよ」、と。
それを家族に言伝てた張本人の私が、もたもたとキッチンに立ち尽くしている。
だって、ためらわれるんだもの。
今向かうべきは、避難所なのか…?
「お母さん!ちょっとみんな、先に体育館に行ってて?」
「行っててって、ハナは?」
「私、ちょっと友達の様子見にいかなきゃだから。
大丈夫、すぐサワとかけつけるから!」
「あ、そう?」
私は自分の部屋に戻ると、救急用のダサいリュックを肩からおろし、
代わりに旅行用のトランクを引っ張りだしてきた。
智子ちゃんのほど高級品じゃないが、私のお気に入りの、ギンガムチェックのトランク。
そこに、丈長のワンピースとジーンズを1本、Tシャツを2枚。下着を2組。
ミントグリーンのパーカーは羽織って、薄手ダウンをぎゅっと丸めて押し込む。
バスタオルが1枚とハンドタオルが1枚。
基礎化粧品だけのコスメポーチを放り込む。
洗面所に行って歯ブラシとブラシ。ドライヤーは…あきらめ!
スマホの充電器は絶対忘れちゃダメ。
そして、お気に入りのオリンパス(のマイクロ一眼カメラ)。
あれ?必需品って、思いのほか少ないじゃない。
トランクにはまだ、空きスペースが残っているくらい。
カンパンと水でも詰めるか。
ほかに何かないか、部屋を見渡す。
部屋の真ん中に散らばっているのは、本棚から落ちてきた写真アルバムの束。
これだけでも、トランクに収まらないくらいの量がある。
今まで宝物だと思って、本棚の最上段に鎮座し続けていたけれど、
よくよく考えてみたら、まったく必要がない。
それどころか、もし私が自室でくつろいでいたなら、
この妙に重たいアルバムたちに、致命傷を負わされていたところだろう。
ほかには?
再びクローゼットを見渡す。
名残惜しい服はたくさんある。たくさんたくさん。
でもどうせ、1年後にはどれもほとんど着ないのだろう。必需品ではない。
マンガもDVDも思い入れはあれど、必要ない。読みたければ漫喫にでも行けば良いんだ。
立派なコンポがある。
でもここ4年くらいほとんど使っていない。音楽はスマホで聞けるから。
ひととおり考えあぐねた結果、救急リュックからトイレットペーパーを取り出し、
トランクの空いたスペースに、4ロールほど詰めた。
あぁ、いけないけない!
忘れるところだった。
クロッキーノートとマジックペン。大丈夫。かさばるものではない。
『トランク1つで生きていく』