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エピソード26 『「おとぎの国」の歩き方』

  • 執筆者の写真: ・
  • 2023年3月5日
  • 読了時間: 3分

エピソード26


爺さんは、宗教の話を続ける。

「どの聖典にも、『目くらまし』と『真典』とがある。

 仏教でいうなら、現代仏教はどれも『目くらまし』にすぎない。

 『真典』に該当するのは、

 ゴータマ仏陀の言葉とその足跡、それのみじゃ。

 宗教が金儲けに用いられはじめたとき、『目くらまし』が生まれる。

 仏教だけでなく、キリスト教にも道教にもそれは起こった。

 秘法と言われるチベット密教にさえ、それがある。

 世の中の霊言は、『目くらまし』ばかりだ。

 しかし、それを見極めるのは簡単じゃよ。

 『これをやれば救われる。これをやれば願いが叶う』

 そのようなご都合主義を含んだものは、全てが『目くらまし』じゃ。

 人が未熟なうち、他人任せであるうちは、こうしたご都合主義に魅了される。

 が、自己解決を美徳に感じるようになってきたなら、

 ご都合主義にはむしろ、嫌気が差してくる。魅力を感じなくなる。

 そんなときに『真典』の断片を見聞きするなら、

 それが『真典』であると、気づけるじゃろう。

 そして、他の求道者とは別の道を行くようになる。

 敬愛する師の頭を、踏み越えていくことになる。

 一つの基準として、

 ダキニ(天使)と会話できるようになったならば、宗教はもう必要ない。卒業じゃ。

 座禅瞑想を怠らぬならば、ダキニの声を聞くときが来る。


 『チベットこそが真実の語り部である』というその言い伝えも、

 実のところ、『目くらまし』にすぎんのじゃよ。今となっては、な。

 鋭い求道者は、気づくであろう。

 チベットの信仰者が、幸福を願ってマニ車をぐるぐると回しているということは、

 チベットの大衆宗教に、真実は、無い。

 古来のチベット密教が持っていた真理は、

 チベットではなく、東ブータンが隠し持っている。

 東ブータンじゃ。西の都ティンプーではないし、王族でもない。

 アジナ含め東ブータンは、もともとはチベットじゃった。

 王たちの領土問題でブータン領となり、住民は戸惑い嘆いたが、

 それは結果的に、『真理の語り部』としての役割を、援護することとなった。

 これでもし、西側諸国や中国政府がチベットを破壊しても、

 ティンプーが欲に飲まれて魔都と化しても、

 『真実の語り部』たちは、狙われることはないじゃろう。

 東ブータンなどという僻地は、誰も征服しようとは思わんからな。

 あまり暮らしやすい土地ではなく、楽園にふさわしい土地でもないが、

 それは二の次じゃ。重要ではない。

 『真典を語り継ぐ』その使命のために、我々は、東ブータンで生きる。」

爺さんは、額のホクロを、飼い猫みたいに愛おしそうになでた。


「とにかく、お爺さんってスゴい人なんだね?」

「どうじゃろうなぁ?

 ダキニがわしに仕事を与えるのじゃから、

 それなりの境地には達しておるのじゃろうが、

 かといって、あまり凄いとは感じぬな。」

「どうして?偉い高僧より、さらにスゴいのに?」

「何にせよ、年を取れば、それなりの境地には至る。そうじゃろう?

 たとえば、

 『快楽に溺れない精神』は、仏陀の要素の一翼と言えるが、

 さんざん快楽を味わい失敗を重ねた老人が、その教訓に至るのは、

 『凄い』というより『当然』ではないかと、感じる。

 わしはもとより、快楽誘惑の少ない村に生まれ育ったしな。

 それに比べておぬしは、

 快楽の多い国に生まれ育ち、快楽をむさぼりたい年頃におる。

 にもかかわらず、

 パリではなくブータンを選び、

 ホテルではなく野宿を選んで、旅をしておる。

 すると、おぬしのほうが、快楽に対する自制心は高いと見受けられる。

 わしは、年相応というところよ。

 おぬしの精神は、齢(よわい)の平均を突き抜けた高みにおる。

 ゴータマ・シッダールタも、若くして仏陀に至ったが、

 やはりそのような者こそ、凄腕だと感じるな。わしは。」

「ふーん。」



『「おとぎの国」の歩き方』

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